2018/12/11

「素晴らしき日々~不連続存在~」と仏教哲学


「素晴らしき日々~不連続存在~」のネタバレ注意

22:16
तथागतो यत्स्वभावस्तत्स्वभावमिदं जगत
तथागतो निःस्वभावो निःस्वभावम् इदं जगत्। १६

如來所有性 即是世間性
如來無有性 世間亦無性
龍樹(ナーガールジュナ)
「中論」(「ムーラマディヤマカ・カーリカー」)

5.6
Die Grenzen meiner Sprache bedeuten die Grenzen meiner Welt.
私の言語の限界が、私の世界の限界を意味する。
5.632
Das Subjekt gehört nicht zur Welt, sondern es ist eine Grenze der Welt.
主体は世界に属さない。主体は世界の限界である。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
「論理哲学論考」(「Logisch-Philosophische Abhandlung」)

SCA-自先生のウィトゲンシュタインの解釈を見ると、龍樹の考え方と何か和声を感じる。龍樹とウィトゲンシュタインによると、「事実」と「現実」は事実や現実としての存在は私たちの想の能力に依存するので、人間が届けない事実なんて存在するわけがない。

SCA-自先生の解釈によると、一つの「主体」は色々な現象をわたって、入れるにつれて、違う存在になる。それで自分の世界は「主体」によって作られている。違う現象が入れられたら、世界も変わる。

唯識派によると、全部の現象は私たちの意識の種から作られた。しかし、龍樹によって、この「意識」は経験上の現象に依存するから、強固な現象の下にある存在としてあるとは言えない。しかし、SCA-自先生の唯識派のようなウィトゲンシュタインの解釈によると、現象は世界のことを囲んで、現象を作る「主体」に依存する。

しかし、この見かけの矛盾は仏教の「二諦」という理論で治せると思う。「二諦」は「『如実』ということが存在しないという如実」を表す。意味は、この「一番純粋な現象の下にある」主体、意識、空、何とかの「絶対者」は事実でもあるが、私たちが経験する日常も事実であること。この絶対者はありふれた現象との差異によって発送されるので、絶対者というものは私立的な存在することができません。

この主体は日常の現象の上にある存在なのに、この主体も経験する現象によって存在する。それで、現象の序列は絶対にない。SCA-自先生の解釈によると、作れる世界や存在も現象を説明するための理論も無限だから、現象を囲むのは主体と世界を作って、無限の可能性と依存する現象の事実から分かれて、「不連続な存在」というありふれた事実にする。

華厳宗によると、この二つの「如実」と「日常の事実」は実際に互いに依存して、他のを差異の発送で作るので、この二つさえ私立的な存在があるとは言えない。だからこそ、私たちの「不連続存在」、私たちの「素晴らしき日々」と無限の「如実」は同じ因陀羅網に織ったから、同じ私立的なものとして存在しない現象としてわかることができます。

ニコラウス・クザーヌスの「De docta ignorantia」 (「知ある無知」)は同じような考え方をキリスト教の神学の用語で与えるみたい。無限の「如実」は「父なる神」、「不連続存在」の日常的な事実は「人の子」、この二つの圓融は「聖霊」。

論文のテーマになったら、どうやってノベルゲームを引用していいか?
哲学論文なら、ネタバレ注意を入れてもいい?(笑)

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